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2017年07月28日

「八郎潟干拓」に学ぶ

先日、秋田県の大潟村干拓博物館に訪問する機会があった。八郎潟干拓の歴史博物館である。
博物館までの道は、見渡す限りの田畑である。行けども行けどもの田畑。進む道の車窓の緑が、7月という季節柄、美しい。
八郎潟干拓は、戦後の食糧不足への食糧対策、農家の次男、三男らの働く場の確保としての雇用対策、湖沼の水害対策が目的だった。事業は昭和32年に着工し、昭和39年の干拓式を経て、52年に全事業が竣工した。工事着工から20年の歳月と約852億円(当時)の費用を投じている。
干拓後の入植者は、昭和42年に始まったが、土壌の改良が思うようにいかず、コメが作れるようになるまでには大変な苦労があった、と案内をいただいた学芸員が話す。当時、入植しても離農する人もいたそうだ。
しかし、コメが作れるようになると、昭和45年、国はコメの生産調整(減反政策)をとった。干拓事業が始まって13年後のこと。入植を開始して僅か3年後のことである。食糧対策として行われたはずの国策なのに、一転して「コメは要らない」となった。減反政策は、30年近く経った今でも続く。
八郎潟の干拓は、失敗だったという人がいる。結果的にはそうなのかもしれない。減反のほか、干拓のために自然が破壊された。ただ、戦後の食糧事情や当時の内外情勢を考えると、国の将来を見通す難しさがあったと思う。
私はここで、八郎潟の干拓が失敗だったかどうか、論ずるつもりはない。参考にしたいだけで、言いたいのは「沼津駅鉄道高架」である。国も静岡県も、そしてお膝元の沼津市も、この事業を推進するとしているが、本当に「先を見通す目」を持っているのか、と問いたい。
沼津市の人口は、今や20万人を切り、今後も減り続ける。鉄道高架ができる頃(20年後を仮定)は15万人、40年後は11万人程度、という具合である。半減に近い。当然、生産人口は減少し、総生産も減少する。税収は大幅減である。
沼津駅鉄道高架事業は、八郎潟干拓事業と違って、人口減少など、はっきりとした先行きの状況が見通せる。それ故に、無謀な鉄道高架事業はやめるべきなのだ。代替案は橋上駅化などいくらでもある。貨物駅も原地域にこだわることもない。
国も県も沼津市も、それでも鉄道高架に突き進むというのであれば、正気の沙汰とは言いがたい。先行き待っているのは、沼津市の破綻(財政再建団体)である。いったい誰が責任を取るのか。
いずれ沼津駅鉄道高架は、八郎潟干拓事業と同じように、「歴史という審判」を仰ぐことになる。未来の人は、なぜこの事業を行ったか検証し、「無謀な事業」だったと結論付けるだろう。
今、未来の見通しがしっかり把握できるのに、国も静岡県も、そして沼津市政に携わる人達も、なぜ平気でいられるのだろうか。八郎潟干拓に学びたい。
(平成29年7月27日付 沼津朝日新聞「言いたいほうだい」中山康之)

写真は、「大潟富士」。干拓地内にある「日本一低い山」。人工の山で標高0m(海抜0m)。富士山の1000分の1の3.776mで、かつ山頂の標高0mとなるように造られた山。

  


Posted by 一太郎 at 09:28 Comments( 0 ) 沼津市政

2017年07月02日

沼津鉄道高架訴訟

ついに訴訟まで発展した沼津駅鉄道高架。今日(7月2日)、サンウェル沼津で原告代理人の海渡雄一弁護士による説明会があった。原告は、新貨物駅予定地の地権者ら。被告は、国と静岡県。
会場は満席。日曜日の午前10時からの催しにこれだけの市民が集まるというのは、まちの行く末を案ずる市民が多い証である。
訴訟は、市民の声を無視続けた政治(家)や行政の怠慢(前例踏襲、事なかれ主義)の結果でもある。
特に市民の期待を裏切った大沼明穂現市長の行動は、会場のあちらこちらから相変わらずの非難の声を耳にした。折角、市民が選んだ市長というのに、市民の声を聞かないのでは、どうにもならない。もはや市民にとっては、無意味な市長となった。そして市民は、こうして、なおも戦い続けなければならない。酷いことである。
鉄道高架は、沼津の未来のためにも止めなければいけない。時代はそれを許すような時代でなくなったのだ。沼津のある未来は、人口減、生産人口減、税収減が明らかだ。橋上駅で十分。
鉄道高架でまちが元気になるなど、絶対にありえない。先の市長選のように騙されてはいけない。

参考: 鉄道高架は着工して工期15年、建設費1,316億円。橋上駅なら工期3年ほど、建設費27億円(例藤枝駅)。
  


Posted by 一太郎 at 22:02 Comments( 0 ) 沼津市政